PHASE-16感想

 ここ最近、時間が無くて、PHASE-16を観たのはPHASE-17を観る直前でした。
 つまり、PHASE-16と17を続けて観たわけです。
 今にして思えばこれで正解だったかも。
 リアルタイムでPHASE-16を観ていたら、カガリが出ないことに苛ついたかも知れませんから(笑)。
 ちなみに今回のPHASE-17では彼女とラクスのツーショットにドキドキしていました。
 それと「皆さん、元気で楽しそうですわ」と言った時のラクスの冷めた表情と口調に萌え萌え(笑)。

戦争はヒーローごっこじゃない!

シン 「殴りたいのなら別に構いやしませんけどね! けど、俺は間違ったことはしてませんよ! あそこの人達だって、あれで助かったんだ!」
アスラン 「戦争はヒーローごっこじゃない! 自分だけで勝手な判断をするな! 力を持つ者なら、その力を自覚しろ!」

▼本来、シンの任務はミネルバの防衛のはずなのに、アスランが諌めるのも聞かず、ネオやステラの挑発に乗って、ミネルバから遠く離れた場所でMS同士の格闘戦をしてしまいました。
 アスランのセイバーがいたから良かったものの、下手をすれば誘き出されたシンの不在中にウィンダム部隊によってミネルバは撃墜されていたかもしれません(シンがステラとの戦闘に入る前にまだウィンダム部隊が残っていたことは、その後アスランがウィンダムを撃墜しているシーンがあったことからも明らかです)
 敵の秘密基地を破壊しても、母艦たるミネルバが沈んでしまっては意味が無いのです。
 それゆえ、PHASE-16ラストにおけるアスランの叱責は当然のことでしょう。シンとしては色々と不満もあるでしょうが。

▼ちなみに、ガンダムシリーズの中で「鉄拳修正」として、私の中で強く印象に残っているのは、やはり初代とZのそれです(初代はアムロとブライトの「な、殴ったね、親父にもぶたれたこと無いのに」「殴られもせずに大人になった奴などいるものか」のシーン。Zは…ボカスカ修正している印象があります/汗)
 ただ、両者の「修正」には全然別のイメージがあります。
 個人的なイメージがどこまで伝わるかは分からないのですが、
 初代のブライトがアムロを殴る場面には「兄貴のげんこつ」
 Zの修正場面全般に対しては「軍隊の殺伐とした習慣」
 というイメージがあるのです。
 もちろん初代の方が好きなのは言うまでもありません。
 アスランがシンを殴ったPHASE-16の演出にはどちらの意味があるのでしょうね。
 今回(PHASE-17)のヨウラン達とのやり取りやその直後の顔を背けるシンを見るアスランの表情から想像するに、どうもアスランは己のポジションを彼らの「兄貴分」と心得ているように感じたのですが。

▼そういえば、初代といえば……
 前作の放映中、よく「SEEDは初代ガンダムの模倣作だ」との評価を見聞しました。
 実のところ、その種の意見を目にする度に違和感を覚えたものです。
 「SEEDと初代ではコンセプトからして違うのではないか?」と。

 物の見方、考え方は人によって違います。
 ですから、以下の文章はあくまで「私の」感じ方でしかないのですが……

 私は初代ガンダムのコンセプトは「十五少年漂流記」と共通していると思っています。
 「十五少年漂流記」は、極限状況の中に子供達だけで放り出される物語です。大人に頼ることもできず、主人公達は子供だけで助け合い支え合って生き延びていくのです。
 初代ガンダムでも艦長のパオロら正規軍人達は早々に退場し、残された主人公グループにおいて最年長のブライト・ノアですら登場時は「士官候補生」という半人前の存在でした。初代ガンダムは、そのブライトをリーダーに避難民の子供達が衝突を繰り返しながらもやがて仲間意識を深め、互いに助け合って成長していく物語でした。

 ところがSEEDは違います。
 SEEDの序盤において、アーク・エンジェルはマリュー・ラミアスを筆頭に正規の軍人達によって運営されていました。そこには初代のような「子供達だけで極限状況を生き抜く」というコンセプトは見受けられません。ちゃんと機能している大人達の組織の中へキラ達は組み込まれただけなのです(この背景事情だけでも初代とSEEDは全然違うと思うのですが、まあ、物語のどこに着目するかは人それぞれですしね)
 けれど、やがてキラは組織の中に溶け込むよりも自ら離脱する気配を漂わせるようになりました。フリーダムを手に入れて以降の彼は「(協力者がいないのなら)自分一人で戦う」という意味の台詞を何度も口にしていたことを思い出してください。つまり「組織よりも個人」というテーゼが後半のキラの言動からは感じられるのです。
 キラ以外にも、SEEDの物語後半には「集団よりも個人重視」という雰囲気は色濃く漂っていました。
 例えば、SEED・PHASE-36でラクスがアスランに対して言った「ザフトのアスラン・ザラ」という彼を揶揄する台詞も、「組織よりも個人」という観点から捉えることができると思います。
 また、クサナギやアークエンジェル、エターナルが国家という背景を持たない脱走者の集団である(クサナギの場合は「脱走」とは少し事情が違いますが、あの時点のカガリ達が国家という背景を持っていなかったことは確かです)ことも、その文脈で考えることができるでしょう。

 つまり、もう一度整理すると、初代ガンダムがアムロやブライト達ホワイト・ベース・クルーの「子供達」の物語であったのに対し、SEEDはキラやカガリのような「個々人」の物語である、といえると思うのです。

 これはどちらが優れているとかそういう問題ではありません。
 そもそも描こうとしているもの自体が両者では異なるということです。
 すなわち、初代ではホワイト・ベース・クルーという集団の物語を、SEEDではキラやカガリという個人の物語を描こうとしたのではないかと思うのです。
 それゆえ、初代ではカイとミハルのエピソードやミライとカムランのエピソードのようにサブキャラクターまできめ細かく描写され、他方、SEEDでは描写対象である四人の主人公達ばかりが目だったのではないでしょうか。

▼ところで、初代ガンダムの映画版三作目のエンディング・テーマでは
「人は一人では生きられない」
 というメッセージが流れました。
 初めて映画版IIIを観た時、ラストシーンとこの歌に胸が熱くなったことを覚えています。

 SEEDは「個人」を重視する物語ではないか、と上では書きましたが、だからといって、初代で描かれたような「他者との繋がり」を否定しているわけでもないと思います(もっとも、SEEDのメインのテーマでも無かったでしょうけれど)

 前作SEEDのラスト、主人公の一人アスランはジェネシスの内部で自爆を試みました。
 つまり、あの時の彼は誰にも知られることなくたった一人でこの世を去ろうとしていたのです。
 それを思いとどまらせ、人との繋がりを彼に思い出させたのが、後を追ってきたカガリの叫び声でした。
 「人は一人では生きられない」
 初代ガンダムのこのメッセージを伝える役目をSEEDの物語の中で担っているのはカガリではないかな、だから自分は彼女が好きなのではないかな……と、そんなことをチラリと考えた次第です。

 ……あれ? アスランとシンの場面についての感想のはずなのに、思考が全然別の方向に行ってしまいました(笑)。

[17-02-12]