「天使なんかじゃない」

天使「あたしは天使なんかじゃないわ。生徒会長」

自分は天使ではない、と「天使」は明言しています。
とはいえ、他人の言葉を信じるか否かはそれを聞いた者の自由です。
そして、「死んだ世界戦線」のメンバーは彼女の言葉を信じていない。
確かに、「天使」の発現させる数々の超常の力を見れば、「戦線」のメンバーが彼女を人類を超えた何か特別の存在と推測したこともむべなるかな、と思います。

それでは、なぜ「戦線」は「天使」に敵対するのでしょうか。

音無「来世があったとして、人間じゃないかも知れないって、冗談だろ?」
松下「冗談ではない」
音無「だって、そんなの確かめられないじゃないか。誰か見てきたのかよ」
ゆり「そりゃあ確かめられないわよ。でも仏教では人に生まれ変わるとは限らないと考えられているわ。まあ、宗教なんて人間の考えたものなんだけど、でもね、よく聞きなさい。ここが大事よ。あたしたちがかつて生きていた世界では人の死は無差別に、無作為に訪れるものだった。だから抗いようもなかった。でも、この世界は違うのよ。天使にさえ抵抗すれば存在し続けられる。抗えるのよ」
音無「でも待て。その先にあるのは何なんだ。お前らは何がしたいんだ」
ゆり「わたしたちの目的は天使を消し去ること。そして、この世界を手に入れる」

輪廻転生をテーマとしたコミックに手塚治虫の「火の鳥」シリーズがあります。輪廻転生だけでなく、電脳に人間の意識を移植する試みは可能かというSF物、あるいは壬申の乱を描いた歴史物など、長編シリーズならではの様々なテーマが盛り込まれていて、とても楽しめる作品だと思います――が、これは余事ですね。
本題に戻りますと、どうやら、「戦線」の目的は無限に繰り返される輪廻転生のシステムから離脱することのようです。
そして、神をこの世界から排除することで、輪廻の輪から外れるという自分たちの目的は達成されると考えている。
もっとも、ここでひとつの疑問を抱かざるをえません。どうして彼らはここまで自信満々なのかな、と。
彼らの考えのベースにあるのはどうやらキリスト教や仏教の知識のようです。
しかし、キリスト教や仏教以外にも、神に関する仮説は様々な宗教、あるいは神話体系の形で存在するわけで。
たとえば、ギリシア神話。その中で語られるティーターン神族アトラースの有名なエピソード。
蒼穹おおぞらを支えているアトラースを失った瞬間、地上世界自体も崩壊してしまうでしょう。

ということは、「戦線」が神に勝利した瞬間に世界そのものが消滅――という結末だって予想できますよね。


「天使に聞いてみたことは?」

音無「神についてだ。存在するのか?」
ゆり「わたしは信じるわ。まだ見たことはないけど」
音無「天使に聞いてみたことはないのか?」
ゆり「この世界の根幹に関わる質問にはノーコメントみたいよ」

この場合、冒頭で見せた「天使」の言動から察するに、「ノーコメント」というよりも「彼女自身も知らない」という解釈のほうが真実に近いような気もしますが……
「天使」自身も答えを知らないので返事に困って黙ってしまった姿を見て、「そう。この世界の根幹に関することにはノーコメントなのね!」とゆりの方で勝手に早合点したのではないかと。彼女、結構短気そうですし。

それはともかくとして、この作品における「神」とはどのような存在なのでしょう。
「天使」という語が使われている以上、ユダヤ教やキリスト教のバイブルに登場する神を想定しているようにも思えます。

ところで、旧約バイブルの神にとって人間は(人間にとっての人形にも等しい)「作品」です。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2.7)
人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(創世記2.22)

つまり、旧約バイブルによるならば、人間は土から造られた神の作品ということです。
「土から造る」というのは、「戦線」の武器が土塊つちくれをもとに造られているという第二話で明かされたエピソードを連想させ、なにやら暗示的でもありますね。

さて、作品=被造物にすぎない以上、気に入らなければ壊してしまえばよい。
旧約バイブルの神は人間に対してその程度の認識しか持っていません。
その現れがノアの方舟の故事です。旧約バイブルの神はノアの一家を除いたすべての人類を失敗作と断じ、滅ぼすことを決意します。

主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6.7)
「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。」(創世記6.17)
地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。(創世記7.23)

『Angel Beats!』世界に「神」が存在するという設定だとして、その「神」は何らかの目的があるからこそ、この死後の世界の学園に「戦線」のメンバーを呼び寄せたはずです。
その「戦線」はこの世界から「天使」を排除し「神」の影響下から脱しようとしている。
これは「神」の目的に適うものなのか、反するものなのか。
目的に邪魔であると「神」が判断したならば、「戦線」はあっさりこの世界から消される、という結末になる可能性もあると思います。

※もっとも、第四話でゆりが推論していたように、「神」は存在しない、という可能性だってとても高いわけですが。


「現れやがった、俺のところに」

音無「あ、現れた、現れやがった、俺のところに」

音無にとっては「天使」との二度目の対峙ですが、このシーンにはとても奇妙な印象を受けます。
仮にも「生徒会長」である以上、彼女以外にも生徒会のスタッフが存在するはずです。
なのに、現れたのは「天使」一人だけ。

※第四話で判明するように、生徒会には直井という副会長がいます。
さらに、第五話で彼が学園の秩序維持に関してかなりの強硬派であると判明。
直井の介入を排除するために、「天使」はあえて一人で行動していたのかも知れませんね。

この場面で音無も「戦線」のメンバーも「一番弱いところを狙われた」と口走っていますが、もしかすると、彼らのその台詞は製作側によるミスリードという可能性もあるんじゃないかな、という気もします。
すなわち、この場に「天使」が現れた目的はガルデモのライブを妨害することではなく、「音無と会話すること」だったのではないかと。
実際、音無たちが引き上げた後、「天使」は彼らを追ってきませんでした。

ゆり「模範通りに校内活動を行わない生徒に対しては、まず口頭注意。逃げれば追ってくるし、先回りして行く手を阻む」
音無「実力行使は?」
ゆり「目には目をっ。こっちが仕掛けた時にはね」

あの場面で「戦線」に対する何らかの処置をとることが目的なら、ゆりの言ったように、「逃げても追ってくる」でしょうし、「先回り」もするでしょう。
だけど「天使」はそれをしなかった。ぼんやりと音無たちが立ち去る姿を見送っただけでした。
それは「天使」の目的が「戦線」に対するものではなかったから、とも考えられないでしょうか。
「天使」は音無が昨晩この世界に出現したばかりであることを知っています。
その彼が記憶喪失であることも知っています。
それゆえ、「生徒会長」として彼をフォローするためにやってきたのではないか。だから「戦線」の他のメンバーではなく、音無の前に姿を見せた。
だけど、音無はすでに「戦線」の一員として行動していた。
すなわち、「天使」は「転校生が在校生(この場合は『戦線』メンバー)とうまくやっていること」を確認できた。
「生徒会長」としてはほっと一息というところでしょう。
ならば、孤独に震えているかも知れない音無をフォローしてあげる必要もない。
だから、彼が立ち去っても、黙って見送った――
つまり、あの場面はいわば、親切なお嬢さんが姿を見せただけ、という可能性もありますよね。
もちろん、ゆりの言っていたことが正解である確率が一番高いわけではありますが…。

とはいえ、もしこの時「戦線」が「天使」の行く手を遮らなければ、
「ライブをしたいのなら事前に許可をとって。勝手に食堂を使用してはいけないわ」
生徒会長としてそんな注意をする、ちょっと空気を読めていない(それゆえに萌える)彼女の姿が見られたかも知れませんね。だとするなら、少し惜しいかも。

※あるいは、第五話で登場した「激辛の麻婆豆腐」を食べにきただけ、という可能性も(笑)。
(麻婆豆腐を食べにきただけなのに…… 彼らはどうして邪魔をするの? それも銃撃までして)
あの場面で「天使」はそんなことを考えていたのかも。
だとするなら、「天使」の一日の終わりのささやかな楽しみを奪う「戦線」。極悪非道ですね?(笑)。


Departure

ところで、第一話のタイトルである「Departure」ですが、「出発」という意味があって、まさに物語の始まりに相応しい言葉だと思います。
が、同時に「逸脱」とか「離脱」という意味もあるわけで、これは「輪廻からの離脱」という「戦線」の目的ともかけているのかな、という気もしますが、さらにもしかすると「音無が本来のルートから逸脱してしまった」ことの暗喩である可能性もあるかも知れないな、と。
冒頭で「天使」は校庭でキョロキョロと何かを探していました。
あれはもしかすると音無の出現を知り、彼を捜していたのではないか、と。
そして、もしかすると、本来、音無は孤立無援の「天使」の側に付くべくこの世界に招聘されたのではないか、と。

[22-05-05]
文責・てんま