『D.C.III ~ダ・カーポIII~』感想

第10話「ふたりがたどりついたところ」感想

さくらにまで立夏の過去の記憶が「設定」扱いされている件。
(次回予告での会話のことね。)

ようやくストーリーが動き出して面白くなってきました。
初音島でイチャイチャしたり、修羅場ったり、皆で和やかに過ごしたりする物語も良いけれど、やっぱり風見鶏世界が絡んでこないとね。
ラブコメ描写はあくまでスパイスで。
そういえば、最近見たアニメの中で一番楽しめたラブコメ描写は『ヤマト2199』14話のそれでした。
戦術長と船務長の会話を傍受して、砲雷長が「ぐぬぬ」、他のクルーがニヤニヤしてる場面ね。
『ヤマト2199』はラブコメメインの物語というわけでは決して無いわけで。
(何しろ戦術長がああいう人だから。)
だからこそ、そういう描写がスパイスとして効いてくると思うのですよ。

やっぱり直截的なものよりも、そういう雰囲気を窺わせるだけ、という感じの描写の方が好きみたいです、自分は。

感想その1。
さらの台詞。
「魔法」について彼女の掲げたひとつの推論。

さら「もし魔法が実在したら、それはきっと何かを強く願うということと同じなんだと思います。願って努力しなければ、どんな小さな事でも叶いませんから」

いきなり核心に到達できるというのが「天才」の天才たる所以。
原作ではこんな台詞がありました。

「人を愛し、与える人生を選択した魔法使いは、心の力、想いの力を愛にかえて、魔法を捨てる道を選ぶ。」

カテゴリー4の魔法使いの言葉です。
魔法とはつまるところ「心の力、想いの力」であると明言しています。
つまり、それは「何かを強く願うということ」。
そのことを魔法使いでも何でもない「瑠川さら」が一瞬にして見抜いた。
あるいは「枯れない桜」が復活してからの十数日、考え抜いた末の結論なのかも知れませんが、それにしても本物の魔法使いと同じ結論を、魔法とはまるで無縁の少女が独力で導きだしたわけで。
「天才少女」という触れ込みは伊達じゃない。
作画の崩れも少ない(ように見えますし)、アニメのさらは意外に優遇されているような気がします。

感想その2。
探偵事務所でおしゃべり。

ゆずの回想に登場したななかの後ろ姿。
やっぱり美琴と似ているよね。

ゆず「それはゆずには言えないかな。その力のせいで辛いこともあったから」
夕陽「過去には枯れない桜を巡って様々なことがあった、ということです」
美夏「もしかしたらそれは今も続いているのかも知れないけどな」

枯れない桜を監視することが、音姉が受け継いだ「正義の魔法使い」としての使命でしたっけ?
そういえばその力のせいで「正義の魔法使い」は短命という台詞が原作ゲームの何処かであったような気が(確か姫乃シナリオで。)。
あれ? なら音姉も短命なの?
もうこの世界から逝ってしまったの?
でも、魔法でさくらのように肉体の時を止めることもできるわけですし。

美夏の台詞「それは今も続いている」。
「それ」というのは、要するに枯れない桜が招く不幸、呪いのことなのでしょう。
枯れない桜が蘇った以上、呪いも確実に撒き散らされることになるわけです。
ただし、それは風見鶏世界から帰還を果たした「さくら」が何の対策も施していなかった場合の話。
『D.C.II』から『D.C.III』に至るまで、20年という時間の余裕がありました。
「さくら」が手をこまねいたまま、というのは想定しがたいのですが……でも?
『プラチナパートナー』ではそのあたりのことも語られるのかな、と。

なお、美夏が気になる台詞を口にしていました。

美夏「最近、出会うはずのない人物と出会ったからな」

「出会うはずのない人物」というのは「さくら」のことでしょう。
前理事長は20年前に戻って来た、と姫乃が以前の新聞部のミーティングで報告していますし、何より原作ゲームでは成長した姿を披露しています。
だから、本来、幼女姿の「さくら」は存在しないはず。
つまり、「出会うはずのない人物」。
そして、「他人のそら似」という判断をせずに美夏がそう決めつける以上、前回Cパートにおける邂逅の後、二人の間で何らかのやり取りがあったと考えるのが素直でしょう。
あのまま別れたのではなく、ちゃんと言葉を交わして、だからこそあの幼女を「芳乃さくら」だと美夏は認めた。

そして、美夏はこうも言いました。

美夏「君自身、向かい合うこともあるだろう。その時は優しく手を差し伸べてあげるといい。『芳乃』くん」

つまり、美夏は幼女姿の「さくら」に対して清隆が援助を与えることができると示唆しているわけです。
何を話し合ったのでしょうね、「さくら」と美夏は。

感想その3。
「枯れない桜」の木の下で怯える幼女「さくら」。
ほんと、何があるのでしょうか、彼女には。
アバンタイトルでも、街全体を見下ろしながら「さくら」は「大丈夫だよ。大丈夫、だから」と強がっていました。

そういえば、第3話の冒頭で彼女が凝視していた海の上の光は何だったのか。
枯れない桜が集めつつある「悪意」の凝集存在なのか。
もしかすると、本当に「正義の魔法使い」音姉は既にこの世界を去っていて、現在は幼女姿の「さくら」がその代行を果たしているのか。
そうであるならば、「大丈夫だよ」という冒頭の台詞は、『まだ枯れない桜の暴走は起こらない』というような意味なのかも知れません。

さくら「この桜は昔ボクが枯らした桜と同じように奇跡を起こしてくれた。でも、今度は純粋でささやかな願いだけじゃなくて、誰のどんな願いでも無差別に叶えてしまうようになっちゃったんだ。たとえ、どんなに汚れた願いでも。今まではボクが桜の力を制御してたんだけど、結局制御しきれなくなっちゃって、ボクの力だけじゃ防ぎきれなかった。ごめん、このままだとこの桜はもっと大きな願いを無差別に叶え始めてしまう。もっと汚い願いも、もっと恐ろしい願いも」

(『ダ・カーポII S.S.』10話「夢の終わり」)

もしかすると、幼女姿の「さくら」は本来の「さくら」が「枯れない桜」に対して施したセーフティー装置、あるいは監視機構のようなものなのかも知れないな、と。
(だから、成長した姿の「さくら」は落ち着いていられる。)
あるいは、成長した姿の「さくら」には「枯れない桜」の暴走に関する記憶が欠落していて、その部分の記憶を持ち去って本来の「さくら」から分裂した存在が幼女姿の「さくら」なのかな、と。
(だから、成長した姿の「さくら」は脅威のことは覚えておらず、油断しきっている。)
……などなど、色々な想像が出来ますよね。

ところで。
「葛木姫乃」。
偶々同じ苗字というのではなく、彼女があの「葛木家」の末裔だとするならば、やがて彼女が「正義の魔法使い」としての役目を継承することになるのかな、と。

ほんとう、色々と想像を巡らせるための種の尽きない作品だと思うのです。


それにしても。
かつて稀代の魔法使いリッカ・グリーンウッドが夢見たネバーランド計画。

百五十年以上の時を経て。
数世代も重ねて。
それでも。
その完成はいまだ見えず……か。

〔平成25年3月12日/文責・てんま〕

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