『D.C.III ~ダ・カーポIII~』感想

第6話「ふたりでいれるところ」感想

立夏さんはチョロい。
チョロくて可愛い。


今回も原作との異同について触れつつ、感想を。
(以下では、かなり核心に近いと思われる原作のネタバレをしています。)

感想その1。
アバンタイトル。
さくらに「お兄ちゃんあそぼう」と誘われて、いそいそと調査(部活動)を中断する清隆。
幼女とのコミュニケーションを何よりも優先するあたり、絶対にぶれない清隆さん、さすがです。

……という冗談はともかく。
「うたまる」のことです。
猫に似ているけど猫ではない奇妙な生物が街中を行く。
なのに誰も注目していない。
例えば第4話Cパートのバス停で、清隆と姫乃のやり取りに対してサラリーマンや女子中学生が明らかに引いた表情や行動を見せていたように、このアニメではモブキャラもしっかり仕事をしています。
つまり、モブキャラの視点では「うたまる」は不思議な存在には見えないということ。
逆の発想をするなら、「うたまる」は清隆(と「さくら」)以外には見えてないのかな。さらに言うなら、「さくら」も清隆以外には見えてないのかも……と、この時点ではそう思っておりました。
今回のCパートでその印象は変わります。

感想その2。
立夏と清隆の部室ランチ。

立夏「困ってる子を見るとついつい手を出しちゃうのよね。敵に塩を送るとはまさにこのことだわ。(ため息)わざわざ生徒会と掛け持ちをしてまで清隆とふたりっきりでいちゃいちゃするために新聞部を作ったのになー」
 清隆「ええええ、そんな理由で作ったんですか?!」

清隆が驚くのも無理はありません。
去年の春先(清隆が中学1年次の3月頃)と言ってることが違うやん!と。

立夏「まだわたしたち公式新聞部は駆け出しの弱小紙。でも、ゆくゆくはこの風見学園で唯一無二のマンモス部になる予定なの」
 (中略)
 立夏「必要なのは金より物より人材なのよ。徐々に部員を増やし、予算も増やし、わたしたちが本校生になる頃にはかなりビッグな部活になっている! そんなビジョンがわたしには見えるわ」
(ドラマCD Vol.1)

マンモス部になるならふたりっきりになる時間はまず無くなるし、第一、2ヵ月後には立夏とるる姉が本校生となるというのに部員6名という現状はいったいどうなのさー、と。
でも、容姿も学力も人気もとびきりハイレベルの美少女集団の中に自分から飛び込んでいくのって、同性にとっても異性にとっても敷居が高いと言いますか、気後れがすると言いますか、かなり勇気のいることのような気もしますから、現状の6名という人数は仕方のないことなのかも知れないですね。
みんな仲が良くて結束して見えて、外から入りにくいというところもありそうですし。
で、その結果、現在中学1年の葵が本校を卒業する5年後まで新規メンバーが増えない……とか(笑)。

ともあれ、勢いだけで何か宣言しちゃったり行動したりする立夏さんがおバカ可愛い。
この「ふたりっきりでいちゃいちゃするために新聞部を作った」という台詞も、清隆で遊ぶためにこの場の勢いで言ったんじゃないかな、とそんな風にも思っております。

ちなみに、原作ではこの後、立夏に対する清隆の人物評が続きます。

「ま、結局のところ立夏さんは単純なのだ。」
「誰かが困っていたら自分の損得抜きで手を差し伸べるし、楽しいって思うことにはみんなをどんどん巻き込んでいく。」
「たまに暴走気味なところもあるけど、それでも楽しいのには間違いなくて。」
「ものすごい器用な癖に、ものすごく不器用なのだろう。」

思いっきり好意的な評価です。
立夏のことを絶賛しています。
でもそれは異性に対するまなざしではなく、敬愛する格好良い先輩に対するそれのようでもあって。
その辺り、突破できない見えない壁が清隆にはある、と立夏としては感じているのでしょうけれど。

毅(つよ)い部分や格好良い部分だけではなく、弱い部分も垣間見せたなら、世話焼き体質の清隆は意外に落ちやすい……というのが、原作を遊んだ上での彼の印象なのですが。
初音島編の立夏はどんな苦境でも平然と笑って乗り越えて見せそうで、脆さを露呈するような印象がないんですよね。

感想その3。
立夏さんと「運命の人」。

立夏「当然じゃない。好きよ。好きじゃなかったら、こんなに運命の人、運命の人、言うわけないじゃない」
立夏「今のわたしは今のわたしとして、ちゃんと清隆のことが好きよ」

「運命の人」発言。
さくらが存在する以上、「この世界」では確かにリッカこそが大正義
とはいえ、風見鶏編を放映しないなら、立夏はただの電波な先輩なんですよね~。

ところで、「今のわたしは今のわたしとして、ちゃんと清隆のことが好きよ」という立夏の返事を引き出した清隆の質問のことですが、原作では、

「清隆『じゃあ、仮にその設定が本当だったとして、今の立夏さんは俺のことが好きなんですか?』」
「清隆『運命とかそういうことだけじゃなくて、立夏さんの気持ちとして』」
「ちょっとだけ立夏さんを困らせてやろうと思って言った俺の質問に、」(以下略)

ここに引用したテキストで明言されていますが、原作では清隆の本来の意図は「ちょっとだけ困らせてやろう」という程度でしかなかったんですよね。
それを(貴女は過去の記憶に囚われているだけじゃないんですか? 今の俺をちゃんと見てくれているんですか?)と、あたかも告白にも似た真剣な問いかけにしたこの場面がかなり好きです。
夜桜に囲まれ、ライトアップされた公園の噴水の前、というロケーションも良いですよね。

感想その4.
Cパート。
校門で幼女に待ち伏せされる清隆スゴイ。
幼女に「お兄ちゃんあそぼ」と呼びかけられて、「おっ」ととても良い笑顔を返す清隆半端じゃない。

さら「誰ですか、その子」
姫乃「あ、もしかして」
立夏「この子が清隆の言ってた子?」
るる姉「ほんとだ、かわいいねー」
葵「こんにちわっ」

さくらと出会った公式新聞部メンバーの反応ですが、原作とは違います。
原作の彼らは、「この人に会うのは間違いなく初めてのはず」なのに、「一瞬にして、その女性に引きこまれて」「油断したら、涙が出てしまいそうになるくらいに」「『懐かしい』」せいで「戸惑っていた」と表現されています。

そもそも、原作では初音島編に登場した「さくら」とアニメの「さくら」はその外見年齢自体違います。
アニメの「さくら」の方が原作よりも外見年齢は風見鶏編の「さくら」に近い。
つまり、風見鶏の記憶が刺激されるとするなら、原作の「謎の女性」ではなく、むしろアニメの「さくら」に対してじゃないかな、とも言えそうです。
なのにそうならなかったのは、もしかすると「さくら」の方に問題があるからなのかも知れないな、と。
そこで、アニメに登場する幼女「さくら」の正体についていろいろ考えてみました。

A.「さくら」=芳乃さくら
 →この場合、「いつの時点のさくらか?」という疑問が発生します。
  a1.『ダ・カーポ』以前の芳乃さくら
  a2.『ダ・カーポII』後で、かつ『ダ・カーポIII』「邂逅のアルティメットバトル」以前の芳乃さくら
  a3.『ダ・カーポIII』「Da Capo」以降の芳乃さくら
B.「さくら」≠(等号否定)芳乃さくら
 →この場合、「では何者か?」という疑問が発生します。
  b1.他人のそら似
  b2.『ダ・カーポII』の桜内義之と類似した存在

まず、a1.について検討してみましょう。
仮にこの「さくら」は実年齢と肉体年齢が一致しているとします。
その頃、彼女の身に何があったのか。
例えば、大好きだったお祖父ちゃん(清隆過去世)の死という出来事があったのかも知れません。
この場合、以下のような流れは考えられないでしょうか。
 祖父・葛木清隆の死
 →枯れない桜に捧げた「祖父に会いたい」という幼いさくらの願い
  →時空を超え、転生した存在である芳乃清隆と出会う

こう考えれば、初対面の時に清隆に何か感じていたらしいさくらが、同じく初対面の時の他の公式新聞部メンバーに対してはさして強い関心を抱いていないように見えたこととの整合性もとれるように思えます。

そういえば、第3話の感想でちょろっと妄想してみた、
 葛木清隆→朝倉純一→芳乃清隆
という転生の流れは、魔法で年齢の進行を止めているさくらと純一の本来の年齢差にもよりますが、
 葛木清隆→朝倉純一
の部分でかなり苦しいことになるんですよね。
(さくらとの年齢差次第では、葛木清隆の死亡後に朝倉純一が生まれた可能性も皆無ではない?)

次に、b2.について。
枯れない桜の復活後にこの世界に現われた「さくら」(第1話)。
つまり、誰かが復活した枯れない桜に願ったから「さくら」が生まれた、という可能性もあるでしょう。
実際、第1話Cパートで呆然と虚空を眺めていた「さくら」の表情には、『D.C.II S.S.』でこの世界に出現した時の「桜内義之」のそれと通じるものがあるようにも思えます(『D.C.II S.S.』第8話「さくらんぼとお兄ちゃん」)。
もっともこの場合、「それでは、この『さくら』は誰の願いで生まれた存在?」という疑問が生じますね。
例えば義之や音姉など、かつての「家族」や友人たち。
『ダ・カーポII』の直後なら、彼らがそうする理由は十分すぎるほど存在します。
ですが、さくらは「この世界」の「この時間」にすでに帰還を果たしています(第4話「いつまでもいたいところ」)。
だから、彼らにさくらの復活を願う必要はありません。
なので、「さくら」の正体がb2.である可能性はそんなにないように思います。

最後に、a2.やa3.ならば、さくらは記憶喪失の状況にあることになります。
この場合は、もしかすると風見鶏編「Zero」シナリオを初音島編に置き換えたような展開になるのかも。
あ、これは「さくら」の正体がa1.の場合でも同じか。
さくら本人の願いではなく、誰かの魔法に引かれて、時空を超えて、さくらが「この世界」に現われた。
その場合、禁呪を行使してさくらを「この世界」の「この時間」に招いたのは、「あの世界」と同じ事情を抱えていそうな彼女……なのかな?
そうであるならば、公式新聞部メンバーの好感度が全員MAX状態なのも、言ってみれば「好感度そのままでニューゲーム」を「この時間」で何度も繰返してきたから、とか?


この場面の感想をもうひとつ。
公式新聞部の面々は「さくら」と普通に挨拶していました。
だから、「さくら」が清隆だけに見える精霊的存在ではないことは明らかです。
ですが、全ての人間に見える存在であると確定したわけでもありません。
風見鶏での日々を通じて「さくら」と縁を持った人々――特に公式新聞部の面々――にだけ見えている存在……という可能性も微量ながらあると思うのです。


ああ、それはともかくとして、あの後、公式新聞部特別会議が開かれたんだろうなー、と。
議題はもちろん、
「清隆の/タカくんの/兄さんの/清隆さんの/先輩の性癖について」

さて。
来週は葵ちゃん回。
それが終わったら、残るストックは立夏やさらとの出遭いや杉並の言っていた「行き詰まったとき」云々で始まるイベント(原作でのイベント名「杉並の助言」)くらいしかないわけですが、どうなるんだろう。
(さらの「理不尽に意地悪です」イベントみたいに、風見鶏の伏線になりそうなイベントはカットされる可能性が高いですし。)
このまま初音島編続行で、「Zero」シナリオを初音島編で再現する……とかかな?

もっとも、仮に風見鶏編に進んだとしても、今のペースなら最後まで行くのにあと3クールくらい必要なイメージです。

そういえば、巴はまだ一言も喋ってませんが、OPに出ている以上、ストーリーに絡んでくる…………はず?


ところで。
今回のタイトル「ふたりでいれるところ」について。
「いる(居る)」という動詞に助動詞「れる・られる」を付けたものなのでしょうが、この場合、助動詞は可能の意味なのだから、「られる」しか本来は使うべきじゃない。
つまり、「いられる」と表記するのが本来は正解だよね、と思ったりして。
「いれる」という言い方はいわゆる「ら抜き言葉」でしょう。

もっとも、これは意図的な誤用であって、「『ふたりでいれる』って、二人で何を入れるの?」というミスリードのための表記であるような気もしますが。
その場合、「ふたりでいれるところ」というのは、実は「公式新聞部の部室」を意味しているのではなくて、「ウェディングケーキの二人で入刀する箇所」の暗喩なのかな、と思ってみたりして。
立夏も下校デート中にウェディングドレスを見てましたし。
(そもそもあの場面で清隆に何を言ったんだろ、立夏は。)

そうだとするなら、まさに大正義立夏さん
……って、すごいコジツケです(笑)。

〔平成25年2月11日/文責・てんま〕

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