尖塔の階段を昇る。暖衣飽食をせず普段から適度に体を動かしている者にとっても、この傾斜は結構きつい。
少し呼吸が荒くなり始めた頃、少女の足は止まった。
人の姿が目に入った。階段の先の踊り場に佇んでいる。青い髪の少年だ。
少年は壁に穿たれた覗き窓から外を眺めていた。
ラケシスは微笑した。彼がここにいるという予想が当たったためだ。
(私たち、心で繋がっているのね……何ちゃって)
と好き勝手な妄想をしつつ、ラケシスは声をかけるタイミングを測った。
いきなり呼びかけたら驚くに違いない、とラケシスはほくそ笑んだ。年に似合わずいつも落ち着き払った少年のビックリする顔を見ることができるかも知れない。
けれど結局それは無意味だった。ラケシスがフィンのいる踊り場に辿りつく前に、少年が手すりの上からひょいと顔をのぞかせたからだ。人の気配を感じたのか、何とはなしに下を覗いてみたくなったのか。
おもむろにラケシスとフィンの目が合った。
「……」
「……」
フィンを不意打ちすべく足音を忍ばせて近づいていただけに、ラケシスとしては少しバツが悪い。フィンはといえば──小憎らしいくらい冷静な表情で王女のことを見下ろしている。
「え、えーと、その……」
ラケシスはもごもごと口を動かしたが、うまく言葉にならなかった。
王女の驚いた顔が面白かったのか、フィンはくすっと笑った。そして、
「ラケシス王女、どうしてここに?」
ラケシスはフィンの微笑にホッとして、
「えーとね、城下へ行きたいの。だから一緒に来てくださらないかしら、と……そう思って」
「それでわざわざこんな高い塔を上ってこられたのですか。誰かを呼びにこさせればよろしいでしょうに」
「うーん、それはね……」
ラケシスが言いかけた時だった。
「何だ、ラケシス。また城を抜け出す算段か? しかも彼を巻きこんで」
エルトシャンが姿を見せた。ずっと上の方の階段から降りてきたのだ。フィンの背後にすっと立つ。足音を忍ばせていたらしく、今まで気づかなかった。
「エ、エルト兄様!? どうして……」
「国王が自分の城にいて何がおかしい」
エルトシャンが笑った。妹姫を驚かせることに成功して痛快至極といった表情だ。
「なあ」
同意を求めて獅子王はフィンの肩に手を載せた。
「そうですね」
フィンもにこやかに頷く。
「ほら、彼も俺の味方だ」
エルトシャンはぐいっとフィンを引き寄せた。
(……! 私のフィン殿に馴れ馴れしくしないで)
と一瞬ラケシスは気色ばんだが、よく考えれば彼らは男同士である。自分はいったい何を想像しているのだろう。ラケシスは反省しようとしたが、
(……ううん、兄上に肩を抱かれてフィン殿が妙に嬉しげなのがいけないんだわ。後でとっちめてあげるんだから)
一方的にそう決め付け、改めて兄の方へ向き直った。
「ところでエルト兄様。私は別にお城を抜け出そうとか、そういうことを企んでいるわけではありませんよ?」
「では、何を企んでいるんだ」
「『企む』なんて人聞きの悪い」
ラケシスは抗議した。
「お前の口から出たんだぞ、『企む』という言いまわしは」
エルトシャンが指摘する。ラケシスは一瞬口篭もったが、
「……まあそのことは置いておくとして」
「置いとくのか」
「兄上の欠点はひとつの事に執着しすぎることですわね」
ラケシスは澄まして言った。エルトシャンは『ああ言えばこう言う』とでも言いたげな貌で頭を振った。フィンは兄妹のやり取りを面白そうに眺めている……のかどうか、彼の顔に浮かぶ微妙な表情からはその内心はいま一つわからない。
「……まあいい。話を続けろ」
「そうですね。もう脱線しないでくださいね、エルト兄様」
「……」
「ええと、どこまでお話したかしら……」
ラケシスは少しだけ記憶を遡って、
「そうそう、フィン殿を城下街へご案内したい、ということでした。いつも私の護衛官をしてくださっているのですもの。折角ノディオンまで来たのですし、アレスの誕生会だけでなくノディオン城下のことも知って貰いたいわ、と思ったのです」
「それのどこが城を抜け出す算段ではないんだ」
ラケシスはそのエルトシャンの台詞を無視して、
「いかがかしら、フィン殿。ノディオン城下を巡るツアーは。今なら王妹殿下の案内付きですよ」
にこやかに尋ねる。
(うわっ、ここで自分に振るか)とフィンが思ったかどうかは本人にしかわからないことだが、一瞬の沈黙の後、
「エルトシャン陛下」
フィンはくるりとエルトシャンの方を向き、身を屈めて膝を床につけた。跪礼の姿勢で、
「妹君を城下にお連れすること、許していただけるでしょうか」
王に問い掛けた。
「う、うむ」
エルトシャンは一瞬吃驚したようだったが、やがて好もしそうにフィンを見つめ重々しく頷いた。
「今日一日、そなたに妹を任せる。よしなに」
「は、ありがたき幸せ」
短くやり取りする二人の様子を遠くから眺めると一幅の壮麗な絵画のように見えたかも知れない。
けれど、今の観客はラケシスだけだった。その彼女はなぜかうっとりとフィンを見つめていた。
(そなたに妹を任せるそなたに妹を任せるそなたに妹を……)
頭の中で何度も兄の台詞を繰り返しながら。
……『今日一日』という部分は聞き落としたのかもしれない。
第四幕の続きで、本来ならシルベール砦やアグスティ城にいるはずのエルトシャンやラケシスたちがアレスの誕生祝のためノディオン城に集まっているという設定。