水の神殿。
かつて戦乱で荒廃したこの聖地にも神官や聖職者たちが次第に参集し、ようやく回復の兆しが見え始めていた。
そして、神殿では今日も聖なる祈りが捧げられている──
「リュナンさま?」
聖性を感じさせる清らかな少女の声が聞こえた。
長く黝(あおぐろ)い髪が風の中をなびく様子は、ため息が出るほど美しい。
もっとも、少女の姿を鑑賞する正当な資格の持主はこの場にはいないようだった。少女──エンテは今まさにその人を捜していた。
(どちらにいらっしゃったのかしら)
エンテは少し不満に思いながら恋人のことを考えた。
(せっかく久しぶりにここ(水の神殿)へお出でになったのに……)
もしかして神殿の中で道に迷っているのかも。そう考えてエンテは参詣者のよく迷い込むような場所を探し歩いていた。
(でも、小さなこどもではないのだし──)
そう考えた次の瞬間、エンテの顔が輝く。公子の姿を見つけたからだ。
樹齢数百年はありそうな巨樹の根元でリュナンはしゃがんでいた。
(ああ……やっぱり迷子になってらしたの?)
(仕様のないひと……)
軽い眩暈とそれ以上の愛しさを感じながら、エンテは公子に近づいた。
「リュナンさ……」
声をかけようとして思いとどまる。
公子の瞼は閉ざされていた。軽い寝息が規則正しく聞こえてくる。
どうやらリュナンは午睡を楽しんでいるようだった。
エンテが近寄っても公子は目を覚まさなかった。
(もう……)
リーヴェ王宮と水の神殿。普段は遠く離れている二人である。
たまに──本当にたまにしか会えないというのに、リュナンは惰眠を貪っているらしい。
怒って叩き起こしてもよい状況だと思えるが、エンテは微苦笑するばかりだ。
(だって、リュナンさまがお疲れなのはわかっているもの)
ラゼリア太守にしてリーヴェの代王。片方だけでも激務なのに、不慣れな身で二つもこなす。
(本当なら私もリーヴェの王女として、リュナンさまと労苦を分かちあわないといけないのに──)
けれど、エンテには水の巫女としての勤めがあって──この水の神殿で日々を過ごしているのだ。
(──それにしても気持ち良さそう……)
エンテは木に寄りかかって眠る恋人の傍らにちょこんと腰を下ろした。
そのまま、ぴとっとリュナンの傍らに寄り添ってみる。これだけでもエンテにとってはちょっぴりドキドキするシチュエーションだ。何しろエンテはリュナンに手を握られるだけで恥ずかしくなってしまうのだ。
(うふふ……)
触れ合った腕を通して公子の体温が伝わってきて、エンテは簡単に幸せな気分になった。
普段なら照れてしまうことでも、リュナンが眠りに落ちている今なら大胆に行えそうだった。
例えばリュナンの顔を正面からじっと見つめるなんて、照れくさくて気後れしてしまうのだけど──
(睫毛、長いのね──)
エンテは公子の寝顔をしげしげと眺めた。
整った鼻梁、日焼けした肌、そして少しだけ開いた口元からは寝息が漏れてくる──
不意にリュナンの頬を突ついてみたい衝動に捕らわれた。
(ぷにっとしてるのかな?)
どんな感触なのか確かめてみたい。神殿に遊びに来る小さな子供たちのほっぺならよく触っているけれど──あの子たちと同じなのかしら?
好奇心の赴くままエンテはそろそろと指を伸ばした。
王女の白魚のような指先が頬に触れるかどうかという瞬間、リュナンの目がぱちっと開いた。
「あ」
「え?」
瞬間、二人の視線が絡み合い──エンテはリュナンの顔先に指を突き付けたまま固まってしまう。
「……メーヴェ、何をしてるんだい?」
ややあってリュナンが微笑しながら尋ねた。日なたの匂いがするような暖かい笑顔だった。
「あの、その……」
王女は真っ赤になりながら絶句する。寝顔に見惚れてましたなんて、とても言えない。
「ま、いいや」
リュナンはあっさりエンテを解放した。
「それより、ありがと」
「はい?」
「僕を捜しにきてくれたんだろ? 水の神殿って広いから、つい迷ってしまったよ」
リュナンは恬淡として言った。
「もう、リュナンさまって──」
ほんと、子供みたい。
エンテは思わず笑い出した。そして自分が彼をどんなに深く愛しているか実感する。
「……何がおかしいのか判らないけど──」
リュナンが王女の笑顔を愉快そうに見つめながら言った。
「僕はエンテが絶対捜しに来てくれると思っていたよ」
「あら、どうしてそんなに自信満々なのですか?」
エンテは意地悪そうに訊いてみる。
「たまに会えた恋人を放ったまま、お昼寝なさっていたリュナンさま」
そう皮肉を言った後でエンテは後悔した。滅多に会えないのに喧嘩なんてしたくない。
けれどリュナンはエンテのセリフをあまり気にしなかったようだ。
「だってさ──」
「あ」
リュナンはおもむろに腕を伸ばすと、隣に座っているエンテの肩に手を載せた。
公子の手は青年武将らしく大きくて硬かった。巫女服の薄い布地越しに節くれだったリュナンの指先を感じて、王女は我知らず顔を赤らめてしまう。
そんなエンテの横顔を見て、リュナンは満足そうに微笑んだ。
公子は腕にちょっとだけ力を入れると、王女の肩をそっと引き寄せる。
「だって、結局エンテは僕から離れることができないんだから──こんな風に」
言いながら肩を掴む手に力をこめた。
「リュ、リュナンさま……」
エンテの顔は真っ赤だ。
「エンテは僕のものだ。これまでも──そして、これからも」
空いたもうひとつの手で王女の髪を弄びながら、リュナンは優しく囁いた。