2
あたり一面に大量の花びらが舞い散る。
桜吹雪の中、ラケシスはため息を漏らした。
「フフ、何だか幻想的な感じですね」
耳元で声がした。少しだけびっくりして目を見開く。フィンだ。
満開の桜花に見入っていた王女は、少し照れたように微笑んだ。
「そうですね。桜の木の下は非現実的な空間みたい。空気まで桜色に染まっていく気がします」
「……こんな話をご存知ですか」
落ちてくる桜の花びらを手に受けながらフィンが言った。
「何でしょう?」
「桜がこんなに美しいのは……人の精気を吸っているからだという話。大きく育った桜の木の根元には大概……人が埋まっているというのです」
手に積もった桜の花びらの重さを確かめるようにしながら、フィンは語った。
「……そういうお話って……何だか嫌です」
少し眉をひそめてラケシスが答えた。
「おかしいなあ。私が初めてこの話を聞いた時は……その……もっと艶っぽい印象を受けたのですが。話力が足りないのかな」
フィンが笑う。
「そうね。もし本当に『艶っぽい』お話を聞いたのだとしたら、そういうことになるでしょうね」
ラケシスも笑いながら威張って言った。
「……あン」
次の瞬間、王女の口から小さな悲鳴が漏れた。
フィンが集めていた花びらをいきなり彼女の頭に降らせたからだ。
「桜の精みたいですよ」
抗議すべくラケシスが口を開く前にフィンが微笑しながら言った。彼女自身は見ることができないが、頭髪や肩に桜花を散りばめたその姿は優美で幻想的ですらあった。
「とても綺麗だ」
「え……」
突然の賛辞にラケシスは戸惑う。
「綺麗なだけじゃなく、とても艶かしい。むしろ花の女神かな」
「あ、あの……」
そっとフィンの顔を窺った。すると、熱っぽい視線を注がれた。
身の裡に灼熱感が宿り、王女は自分の頬が上気してゆくのを抑えられなかった。恥ずかしそうに俯く。
そんなラケシスをフィンは優しい眼差しで見つめた。
「そうだ、あそこの木の下に行ってもらえませんか」
フィンが桜の大樹を指し示す。
「はい……」
今度は何だろうと思いつつ、王女は彼の言うことに従った。
「こうですか?」
尋ねるラケシスに、
「木の幹に手をかけてみてください」
フィンがあれこれ指示する。そして、おもむろに懐から紙片と絵筆を取り出した。
さらさらと何か描いている。偵察将校を任されることのある彼には絵心があることをラケシスは知っていた。彼の報告書に添付される図画は状況を把握しやすいと評判なのだ。
「フィン殿……?」
手持ち無沙汰でラケシスが退屈しかけた頃、フィンが顔を上げた。
「描けましたよ」
寄ってきて紙片を手渡す。桜の木の横に佇む少女の絵が彩色を施されて描かれていた。
「これ、私ですか」
王女は言わずもがなのことを訊いてしまう。何しろとびきり愛らしい美少女がそこにはいたからだ。とても自分がモデルとは思えない。疑わしそうな目つきでラケシスはフィンの顔を見上げた。すると、
「実物の魅力を万分の一も表現できてませんが……」
済まなそうにフィンが言った。どうやら本気らしい。ラケシスは再び視線を絵に移す。
(このひとの瞳に、私はどう映ってるのかしら)
不意にそんなことが気になった。チラと見上げると、彼が少し不安そうな顔をしていた。黙り込んでしまったラケシスがどんな感想を抱いているのか心配なのだろう。
そこで、王女はとびきりの笑顔を作ってみせた。そしてフィンに尋ねる。
「この絵、いただいてもよろしいでしょうか」
それは気に入ったという意思表示だ。そのことはフィンにも通じたようで、彼は安心した表情になる。
「でも……ラクガキですよ、それ。ラケシス様は専門の絵師に描いてもらった立派な肖像画を何枚もお持ちでしょうに」
慌てたようにフィンが言った。彼はこの絵をすぐに処分するつもりだったらしい。
「思い出ですもの。お仕事で描いていただいた絵とは別の味わいがあります」
大切そうに胸にかき抱く。フィンは照れくさそうに鼻頭を掻いた。
「ね、いいでしょう?」
「まあ、お部屋の片隅にでも放りこんでおいてください」
フィンが頷いた。
「ありがとう」
ラケシスが言った時、
「あ……」
小さく呟くとフィンが真剣な表情になった。
「な、なにかしら?」
ラケシスがびっくりして尋ねる。
「ラケシス様、動かないで」
フィンが命じる。そのまま彼の手が伸びてきて王女の肩を捉えた。
きょとんとしていると、いつの間にか桜の木によりかかり、青年の腕と体で包囲されるような体勢となっていた。
(え……? これって……)
フィンの瞳は真剣そのものだ。
「あ……」
彼の手が頭髪に触れ、ラケシスの胸は激しく高鳴った。
そのままフィンの手は王女の豪奢な金髪を撫でる。
ラケシスは思わず目をつむった。
(これって、これって……)
(ファ……ファースト・キ……)
けれど──
「とれましたよ」
のほほんとした声でフィンが言った。
「はい?」
パチッと目を開いて彼の顔を見る。
「何が『とれた』のでしょう」
「毛虫です。ラケシス王女の頭についていました」
そう言って、フィンは手にした黒い小物体を放り投げた。
「いやっ! とって、とってください……!」
ラケシスが悲鳴を上げる。フィンにすがりついた。
「ですから……今とりましたって」
王女に抱きつかれたまま、フィンは苦笑した。
「あ、ありがとう……」
何だか疲れた気分になったラケシスは、そのままフィンの胸にくたっと頭を乗せる。
フィンは微かに身じろぎした。ラケシスに見えないように含み笑いする。
そして、王女の耳元で囁いた。
「ところで、ラケシス王女……今、何を期待なさったのですか? 目をつむっておいででしたが」
そのセリフにラケシスはパッと顔を上げた。フィンと目が合う。彼は謎めいた微笑を浮かべていた。
「……あの……その……」
ラケシスの頬は真っ赤に染まっている。
「ん? 言ってみなさい」
フィンが命令するように言った。ラケシスは彼に心の裡まで見透かされてる気分になった。恥ずかしさのあまり、頭がクラクラする。
「もしかすると……こういうことですか?」
フィンの手が王女の喉元に伸びた。青年らしい大きくて硬い手が王女の頤(おとがいに触れる。
「あ……」
くいと顎を持ち上げられた。
「かわいいですよ、ラケシス王女」
こんな際にもフィンは丁寧な口調を崩さなかった。けれど、この数刻で確かに彼との距離が縮まった気がして……ラケシスは幸福感に酔った。
フィンの空いた手が背中に回った。髪の先までゆっくりと撫でられる。
うっとりした光を宿すラケシスの瞳に、今度はフィンの顔が近づいてきた。
そのブルーの瞳に吸い込まれそうな気がして、王女はそっと瞼を閉じた──
<Fin.>