あの後……動乱の中、兄が逝去し、グランベル王国の裏切りによってノディオン王国は崩壊した。レンスター王国も業火の中で滅び、義姉はあのようなことになってしまったが……それでもかれらとの日々は胸の奥の一番大切なところにしまった宝物の一つだ。時には喧嘩もしたけれど、とても大事な家族だった……
追憶に浸るうちに一掬の涙がラケシスの頬を伝い流れた。
(……いけない)
ナンナが変に思うだろう。ラケシスは慌てて目頭をぬぐった。
何時の間にか沈んだ調子になっていた声のトーンを明るいものに戻し、
「さ、お待たせしました。いよいよお姫様の騎士の登場よ……って、あら?」
お話の本筋に入ったことでナンナは瞳を輝かして自分を見上げているだろう。そんな期待を抱きながら娘を見た彼女だが、視界に入ってきたのは安らいだ寝顔だった。愛娘は膝の上ですやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
「つ、つまらなかったのかしら……」
ラケシスは思わず呟いた。何しろ『お姫様と騎士』の物語に入る前振りが長すぎた。涙を見られなかったことには安堵したが、少々もの哀しくもある。
「いやいや、結構楽しませてもらいましたよ、『お姫様』」
不意打ちのように背後で声がした。
「……!?」
ラケシスの肩がびくんと震えた。思わず鋭い声で誰何しようとする(そういう日々を彼女たちは送っているのだ)。けれどそんな必要など無かった。彼女の『騎士』の声だった。
「……盗み聞きしていたの? 嫌なひと」
ラケシスは振り返らず前を向いたまま言った。頬が熱かった。ナンナが夢の世界に赴いたお陰で『お姫様と騎士』のお話は頓挫したが、彼がひそかな聴衆だったと知った今、これで良かっのだと思い直した。彼と出会ったあの頃の思い出話を(固有名詞を変えて)ナンナに聞かせる予定だったが、それはラケシス自身の願望やら主観やらでたっぷり潤色された内容だ。そんなものを彼に聞かれると思うと、さすがに気恥ずかしい。
「『盗み聞き』か……ずいぶん人聞きの悪いことを言うね。お話の邪魔をしないように、こっそり静聴していただけなのに」
笑いを含んだ調子でフィンが返事した。彼の声は意外に近場から聞こえた……というより、息のかかりそうなくらい傍にいた。気づかなかったのはナンナへの物語に熱中していたせいだろう。
「そういう私の配慮を理解してくれないなんて哀しいな、ラケシス」
フィンがわざとらしくため息をついた。
「あのね、それを世間では『盗み聞き』と呼ぶのよ」
ラケシスが指摘した。二人ともひそやかな声だ。寝入ったナンナへの配慮である。
「……これではちょっと話がしにくいかな」
フィンが独り言のように呟いた。ラケシスがうなずく。暗黙の了解で二人は話を打ち切った。娘をベッドに運ぶことにした。
部屋の中ではリーフがぐっすり眠っていた。その傍らに金髪の童女を寝かせ、そっと毛布をかけると、二人は再び屋外へ出た。二人だけの時間というのも久しぶりだった。
「それにしても……『世間では』って……姫君に世間知らず呼ばわりされるとはね……ん?」
先刻の話を蒸し返そうとしてラケシスの顔を覗きこんだフィンがかすかに眉を顰めた。
「なに?」
良人の表情の変化にラケシスは不安そうな面持ちになる。何か異変を察知したのだろうか。何しろかれらは逃亡者なのだ。
「……」
フィンはラケシスの疑問には答えず、おもむろに手を伸ばしてきた。咄嗟の振舞いに反応することもできず、ラケシスは大きな瞳でフィンの顔を見返すのが精一杯だった。
「……?」
彼の指先が彼女の目尻から頬にかけて這うように動き、思わず目をつむってしまう。
「泣いていたのか……?」
しばらくラケシスの頬を撫でたあと、フィンが何処か切羽詰ったような調子で尋ねた。
「……あくびよ」
思い出し泣きと言うのも憚られ、ラケシスはそんな風に返事した。昔を思い出して他愛なく涙を流すなんて、まるで小さな子供みたいで恥ずかしいと思ったからだ。何より彼女はマスターナイトの称号の持主なのだ。
けれど彼女の良人は予想外の反応を示した。
「ごめん」
そう言うとフィンはラケシスの体をぎゅっと抱きしめた。
「ど、どうして謝るの?」
フィンの力強い両の
「……君には辛い思いばかりさせている。本当はこんな逃亡生活とは無縁の姫君だったのに……私が不甲斐ないばかりに……」
胸の奥から搾り出すような声だった。彼が本心から慙愧の念を抱いているとわかる。だけど……だけどそれは筋違いだとラケシスは思うのだ。別にフィンのせいで亡国の憂き目を見た訳ではない。彼が原因で逃亡生活を強いられているわけでもない。
(でも、この人は全て自分で背負ってしまうのね……)
キュアンたちのことも、レンスターのことも。
イード砂漠でキュアンたちを守れなかったのは彼の責任ではない。フィンは他ならぬキュアン自身に留守居を命じられたのだから。レンスター城が陥落したのも彼のせいではない。何より国力が足りなかったのだ。
(それなのにこの人は何もかも自分の責任だと思いこんでいて……)
それはとても辛い生き方ではないだろうか。せめて彼の心の重荷の半分でも背負ってあげたい。ラケシスはそう強く思った。そして小さく咳払いすると、
「……ま、確かに宮殿で侍女たちに囲まれてぬくぬくと暮らす生活も、そんなに悪いものでは無かったわ」
フィンの腕の中で身を揉むように動きながら口を開いた。
「あ、すまない。苦しかったかな」
フィンが慌てて腕の力を緩めると、ラケシスは口元をいたずらっぽくほころばせた。彼に体を密着させたまま自らの両腕を広げる。そのままフィンの胴に抱きついた。
「ラ、ラケシス!?」
予想外の振舞いにフィンが小さく驚きの声を漏らす。ラケシスは構わず、
「確かにわたしを『巻き込んでしまった』と思ってしまうあなたの気持ちもわかるわ。あなたはレンスター王家再興を目論む志士だもの。そんなあなたと一緒にいれば、嫌でも当局から追われる立場になってしまうわね」
「すまない」
フィンが哀しげに俯く。
「……だから、謝る必要なんて無いんだってば」
ラケシスは彼の背中を励ますように撫でながら、辛抱強く言った。
「しかし」
「だって……」
ラケシスは一瞬躊躇したが、
「だって、わたしが選んだ道だもの。あなたと一緒に歩んでいくこの道は……」
一息に言ってのけた。彼の胸に頬を摺り寄せたまま……照れくさくて顔をあげることができなかった。仮にそうでなくても身動きすることは不可能だった。フィンの腕が再び彼女を捕らえ、ラケシスの体をすっぽりその中へ包み込んだからだ。まるで(わかっているよ)とでも言いたそうに。
「…あ……フィン……」
良人の腕の中、ラケシスは穏やかな陶酔感に身を委ねた……
……しかし、ラケシスは顔をあげ、フィンの表情を窺うべきだったかも知れない。
彼の貌には甘い陶酔とはほど遠い、不安と厳しさの入り混じった感情が浮かんでいた……