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「29991、29992……」
素振りの回数を胸の中で数えていたフィンだが、終わりが近づいたことで口に出し始めた。
「…29995、29996……」
一回一回力をこめ本気で槍を振っているだけに、最後の回を数えることがとても楽しみなのだ。
「30000……終わったぁ!」
軽い雄叫びと共に練習用の槍を地面に突き刺す。
腕は棒のようになっているが、それでも額に手をやって汗を拭った。猛暑の中、噴出した汗が滝のように流れている。今のフィンは上半身が半裸で、引き締まった肉体を陽光の下に晒していた。
「おつかれさまー」
「うわあぁっっ!?」
いきなり背中に冷気を感じ、フィンは思わず叫んでしまった。ひんやりした物体を押しつけられたのだ。
「そんなに驚かなくても」
反射的に振り返ると金髪の美姫が口を尖らせていた。
皮袋を抱えている。これが背中に触れたのだろう。
「しかし、何の心の準備もしてないところへいきなりですからね」
フィンが弁解するように言った。皮袋をじろじろ見る。
「冷やした果汁を戴いたの」
フィンの視線に答えるように、ラケシスは皮袋を掲げて説明した。
「それを私の背中に当てたわけですか」
「ええ。後ろからこっそり近寄って」
ラケシスは口元をほころばせた。
「フィン殿は一心不乱で素振りに打ち込んでおいででしたから──奇襲はあっさり成功しちゃいました」
用意していた什器に皮袋の中身を注ぎながら、ラケシスが続けた。
「でも、殿方はいついかなる時でも油断しない方が良いと思うわ……というのは兄の受け売りなのですけれどね」
「返す言葉もありません」
頭を掻きながらフィンは言った。ふと見ると、ラケシスはクスクス笑っている。本気で言っているわけではないようだ。
(しかし……)
フィンは少しだけ考えこんだが、王女の声が彼の思索を遮った。
「はい、どうぞ」
ラケシスは果汁の入った器を差し出した。
「かたじけない」
フィンが受け取る。
「今少しだけぼうっとしていたでしょう。もしかすると疲れたのかしら?」
「私はまだまだ隙だらけだな、と反省していたのですよ。武人として恥ずかしいな、と」
「さっき申し上げたことを気にしているの? 何も本気で非難したわけではありませんよ。それに……さっきはそれだけ集中していたということでしょう」
ラケシスが慰める。
「それにしても……いつからおいでだったのですか。全然気づかなかった」
旨そうに果汁を飲み干して、フィンが尋ねた。
「そうね……」
ラケシスは小首をかしげた。
「お手紙を一通書く程度の時間は、あそこの木陰で過ごしたと思います」
少し離れた樹木を指し示した。
「手紙ですか」
「ええ。兄への」
ラケシスが頷く。そして瞳をきらめかせた。
「どんな内容か、知りたいですか?」
「えっ」
「教えてあげましょうか?」
驚いたフィンの顔を見て、王女はいたずらっぽく笑った。
「いや、遠慮させていただきます。ご婦人の書いた手紙の中身を知ろうなんて、礼儀に欠け……」
しかつめらしく言いかけて、フィンは気がついた。彼は半裸だったのだ。
「す、すみませんっ!」
真っ赤になって謝罪する。高貴な姫君の前で肌を見せているのだから当然だ。
けれど、ラケシスはきょとんとした顔になった。
「どうかなさいました?」
「ぼぼぼく、はだはだか」
動転して言葉にならない。ぐるぐる頭が回っているみたいだ。
「落ち着いて」
ラケシスがポンとフィンの二の腕を叩いた。少年の背筋がピンと伸びる。
「もしかして、裸を見られて動揺してるのかも知れないけれど……フィン殿は女の子ではないのだから、恥ずかしがらなくても良いと思うの」
少し呆れたように、けれど愉快そうな口調でラケシスは言った。いつも冷静で大人ぶっているフィンの珍しい表情を見ることができたからだ。
傍らに脱ぎ捨てておいた上着を拾うと、フィンはそそくさと羽織った。ラケシスは面白そうにその様子を眺めていた。慌てているのか、なかなか腕が袖口を通らない。
「あのね。殿方のそういう格好、実は見なれていたりして」
フィンが着終わるのを見届けると、ラケシスはぽつりと漏らした。
「あ、でも」
戸惑った目つきでフィンに見つめられ、慌てて補足する。
「変な意味に解さないでね。夏場は兄もよく上半身裸で鍛錬に励んでいるのです……クロスナイツの皆も一緒に」
「うむっ……!」
半裸で筋肉を披露し誇示する男の集団を想像して、フィンは思わず唸った。壮観──というよりむさ苦しい気がする。何にせよ、キュアン率いるランスリッターでは考えられないことだ。
「だからね。フィン殿もあまり恥ずかしがらなくて良いのよ」
「はあ」
フィンは曖昧な表情で頷いた。ラケシスの頬がかすかに上気しているのに気づいたからだ。この少女の言葉はどこまでが本音なのか掴みにくいと思った。