紅茶の香りが漂っていた。
賑やかなお喋りの声が聞こえる。天馬騎士の娘達だ。
彼女らの中に少年が一人混じっていた。レヴィン──この国の王子である。
レヴィンにとっていつもは心和ませてくれるお茶会だが、この日は違っていた。
それなりに談笑へ加わってはいるが、時折憂鬱な気分になるのだ。
昨晩の出来事が原因だった。
偶然、母と叔父が口論しているのを聞いてしまった。
叔父曰く──レヴィンは王の器ではない、と。
別にその言葉自体が彼の落ち込んでいる理由ではなかった。
まだほんの年若い少年のレヴィンだ。現在の自分では指導者として人々の上に君臨するには無理がある。彼自身そう考えていた。これから自らを育てていく必要のあることも。
『レヴィン……聞いていたのか』
叔父──ダッカー公爵はレヴィンの姿を認めると、一瞬息を飲んだ。母后ラーナも困惑の表情で彼を見た。
『……ちょうど良い機会かもしれん。レヴィンに尋ねるが、お前自身はどうなのだ? この国を──シレジアを正しく導く力量が自分にあると思うのか?』
『それは……』
レヴィンは言い返そうとして、しかし口を閉ざした。叔父の顔が憎悪に歪んでいることに気づいてしまったのだ。レヴィンは蒼白になった。
果たしてこんな表情をする人だったろうか。
ダッカーの射るような視線を浴びながら、記憶を手繰る。
父王存命の頃はもっと……もっと……
「レヴィンさま、どうかなさったの?」
不意に肘を突つかれ、レヴィンは我に返った。昨晩の記憶に浸っていたのだ。
「とっても難しいお顔」
彼の隣でミルクを飲んでいた少女──フュリーが不思議そうな顔でレヴィンを見つめていた。
「……」
何と言おうか彼が逡巡していると、
「どうせ王子様のことだから『切り分けたケーキ、何だか俺の分だけ小さい気がする』とかそういうことで悩んでるんでしょ」
ケラケラ笑いながらディートバが言った。
「そうなの? じゃあわたしの分をあげましょうか」
にこっと微笑むと、少女は自分の皿をレヴィンの方へ差し出した。
「おーおー、こんないたいけな少女からケーキを奪うとは。王子、極悪人ですねー」
パメラが茶々を入れる。
「俺は別に『ケーキをよこせ』なんて言ってないだろ」
レヴィンが抗議した。
「はいはい。そういうことにしておきましょうね」
ディートバが軽く片手をあげて、王子の弁を制しながら言った。
「でも、私達がいなかったら、絶対フュリーの分を口に入れてたと思う」
カップを置いて、マーニャが言った。
「マーニャまでそんなこと言うのか」
レヴィンは年上の少女に向かって呆然と呟いた。フュリーは口を閉ざしたまま皆の会話を興味深そうに聞いている。
「殿下の場合、日ごろの行いがアレですからね」
マーニャは肩をすくめた。パメラとディートバが横でうんうんと頷いている。
「庶民的と言えば聞こえはいいですが、たとえば皆からお菓子を取り上げる手口、特に年少のフュリーを標的にしたその遣り口はセコイとしか言いようがありません」
「く……」
レヴィンは一瞬悔しそうに顔を歪めたが、
「? 何だ、このにおい……お前ら酔ってるだろ」
彼女らのカップから漂う酒精の香りに気づいてレヴィンが指摘した。
「紅茶にブランデーでも垂らしたか?」
「風味を加えるためにね。でも、お子様がやってはダメですよ?」
パメラが小瓶を手にとって振ってみせた。透明な液体が中で揺れる。
「てっきりシロップか何かかと思っていたが……だが、別にそんなものは要らん」
レヴィンがそっけなく言った。
「私もミルクで十分です」
フュリーはカップを両手で持ってコクコクとミルクを飲んでいる。
「……」
マーニャたちは顔を見合わせた。そして、
「おやおや、息の合ったことで」
ディートバが冷やかした。パメラとマーニャはニヤニヤ笑っている。
「ななな、何を言いやがる」
レヴィンは狼狽して吃ってしまう
「別にィ。単なる感想を申し上げたまでですよ」
意地悪そうにマーニャが言った。
「どうして王子は赤くなっておられるのですか?」
そして、矛先をフュリーに変えた。
「ね、フュリーはどう思う?」
「『どう』って……」
いきなり話を振られてフュリーは困惑したようだ。
「天馬騎士たる者、全軍の指揮官である王様との連携が上手くいくというのは、とても良いことだと思うのですけど」
生真面目な顔で答えた。本気で言っているらしい。
年長の天馬騎士たちはプッと吹き出した。
「残念でしたね、王子様。この子、まだまだお子様だわ」
「まあ、長い目で見てやってくださいな」
「妹を泣かせたら承知しませんよ?」
一斉にレヴィンに向かってまくしたてる。
「だから、どうしてそういう方向の話になるんだよ。あー酔っ払いって嫌だ」
レヴィンは真っ赤な顔で抗議した。
「……それともキミたちの頭の中にはそういうことしか存在しませんか?」
「そうだとしたら、王子様どうします?」
「国の守りも危ういな」
王子の皮肉に、しかしパメラたちはビクともしなかった。
「ま、それだけシレジアが平和な証とも言えます。国軍の精鋭たる天馬騎士が恋愛話にうつつを抜かしていられるのですからね」
マーニャがまじめぶって返事した。
「……俺にはいたいけな少年を苛めてるだけのように思えるが」
レヴィンは憮然と呟く。
「『苛め』って……いやだわ。親愛の情の現れですよう」
「物は言いようだな」
王子はニッと不敵そうに笑ってみせた。
(『平和』か。だけど、このままでは……)
しかし胸の中には重苦しい気分が充満していた。
「ね、レヴィンさま」
あとで二人きりになったとき、フュリーが思慮深そうな顔で言った。
「ホントはあの時、ダッカー様のことを考えておいでだったのでしょ?」
「……『あの時』?」
「さっき、ムッツリ顔で黙ってらしたとき」
レヴィンは少し吃驚してフュリーを見つめた。少女は聡そうに瞳をきらめかせた。
「何でそれを……と思ったが、そうか、マーニャから聞いたのだな」
「ハイ。姉さまはラーナさまのお付きの騎士ですから」
フュリーは得意げに微笑んだ。
「仲良し姉妹だからな。何でも話すんだろうね」
うちの叔父貴どもとは大違いだと思い、レヴィンは寂しそうな顔をする。
「そんなことないですよー。お仕事のお話なんてほとんどしてくれません。ただ、昨日は姉様、ムカムカむかむか八当たりばっかりするから、問いつめてみたのです」
「あのマーニャが『ムカムカ八当たり』ね。どんな風なのか、とても想像できないな。冷静で、いつも心に余裕のある人だと思ってたけど」
レヴィンは素直に感想を漏らした。
「姉は外面が良いのです。妹の私には時々横暴になります。お人形を取り上げたり、本を持っていったり。お勉強しなさいって口うるさいし」
フュリーが容赦無く暴露する。けれど、
「でも、一緒にお出かけする時は可愛い服も買ってくれるの」
くしゃっと笑いながら付け加えた。
「あー、そういえば妹を着飾らせて……見せびらかして歩くのが楽しいって言ってたな」
レヴィンは思い出しながら言った。
「だからね、大丈夫ですよ、レヴィンさま」
「?」
唐突な話の転換にレヴィンは戸惑った。
「乱暴なことを言うのは、家族だからだと思うの。疎遠に感じてる人に対して本音でお喋りしようなんて、普通思わないわ」
「……叔父上のことか?」
「はい」
自分の言いたいことをどうやらレヴィンが理解してくれそうなので、フュリーは嬉しそうに首肯した。
「ダッカー様は厳しいことをおっしゃったかも知れませんけれど、それは多分レヴィンさまのことを心配なさってるからだと思います」
「そう……かな?」
フュリーにそう言われてみると、それが正しいような気がする。
「そうですよ、きっと。ダッカー様はレヴィンさまに立派な王様になって貰いたくて、あえて心を鬼にしておいでなんです」
何歳も年下の少女に勇気づけられるということに、どこか引っかかる気もするが──
「……そうだよな。俺も何だかそう思えてきた」
レヴィンの瞳に生気が蘇りはじめた。その顔を見上げていた少女が嬉しそうに微笑する。
「フュリー、ありがとな」
感謝をこめてレヴィンが言った。
「おかげで元気が出てきた」
「どういたしまして」
フュリーが優しくうなずく。お姉さんぶった表情をしていて少し可笑しい。
「きっと、すべてうまく行きますよ」
控えめな口調だがきっぱりとフュリーは言った。
レヴィンにはそれが女神の託宣のように思えた──
<Fin.>