コトコトコト、キッチンの奥からリズミカルな音が聞こえてくる。
フィンはそっと足音を忍ばせてキッチンに入りこんだ。
彼の奥さんは料理に夢中で、良人の接近に気づく様子は無い。
フィンは彼女の背中を眺めながらほくそ笑んだ。
「うん、うまい」
フィンが満足そうに頷いた。その口元から白ソーセージ の先端が覗いている。
その声に驚いて料理に専念していた人物が振り向いた。
「もう……! またつまみ食いなの?」
マッシュ・ポテトを作る手を休め、ラケシスが口を尖らせた。
「お行儀悪いからやめてっていつも言ってるのに」
「すまないね。とても美味しそうな匂いがしていたので、ついフラフラとね」
フィンが笑った。彼の右手にはスプーンが握られており、その前にある鍋ではアスパラガスのクリーム・スープが食欲をそそる芳香を漂わせていた。
「どこが『ついフラフラ』なの?」
しっかり摘み食いの準備を整えている良人の様子に、ラケシスは思わず苦笑する。そして、きょろきょろと辺りを見回してフィンに尋ねた。
「こどもたちは?」
「外で遊んでいる」とフィン。
「ふーん……」
返事を聞いたラケシスは小皿にスープをよそうとフィンに手渡した。
「じゃあ、これ」
「いいの? 食事前だけど」
「だって……」
ラケシスはくすくす笑った。
「私の旦那サマはまだまだ食べ盛りみたいなんですもの」
「いや面目ない」
セリフと裏腹にフィンは少しも悪びれたようには見えなかった。
「だけど、ラケシスも料理の腕前が格段に上達したね」
何の気なしにそう言った後で、フィンは何事かに思い至ったようだ。少し硬い顔つきになる。
ラケシスは良人の表情の変化を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「うん……」
フィンは言葉尻を濁した。
「何か気になることでも?」
真剣な表情でラケシスが問いただす。何しろ、今のかれらは逃亡者なのだ。
「いや、ラケシスの懸念するようなことじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「個人的な苦痛──かな。何と言うべきか……」
フィンはふっと自嘲的に口元を歪めた。
そして彼女の手をそっと握った。
「本当はこんなこととは無縁なお姫様のはずなのにね、と思ったんだ。ごめん」
しんみりとフィンが言った。ラケシスは目をぱちくりさせながら、
「何をおっしゃいますやら」
とフィンの鼻頭をつついた。そして微笑を浮かべて、
「あのね、あなたはお姫様育ちと私のことを馬鹿にしていのるかも知れないけれど」
「馬鹿になんかしていないよ」
「じゃあ、あなどっているのかも知れないけれど」
「あなどってもいない」
「……とにかく、シグルド様の軍に参加する前から、私はよく被災地に行って炊き出しのお手伝いをしていたの。シグルド軍でも炊事当番をちゃんとこなしていたでしょう。知らなかった?」
ちっちっと指を振りながら説明した。
「そうか……」
「そうなの」
と胸を張る。
「お城で大勢に囲まれた生活も嫌ではなかったけれど……でも、小さな家で家族だけで暮らす生活にずっと憧れていたのよ」
それがラケシスの完全な本心ではないにせよ、強がってるようには聞こえなかった。
「ありがとう」
掠れた声でフィンが言った。
「だけど──あなたの心遣いは嬉しいわ」
ラケシスは極上の笑顔を見せた。フィンも微笑し、柔らかい眼差しをラケシスのそれと絡めあう。
「きみのことはいつでも気遣ってるつもりだよ」
と言った。
「だったら──」
ラケシスがちょっぴり威張って──だけど甘えた声で囁いた。
「だったら、言葉じゃなくて……態度で示して」
フィンは少しうろたえた。娘たちにベタベタする姿を見られてしまったら、と躊躇ってしまう。彼はシャイなのだ。
「あ、ああ。だけど、こどもたちは……」
「外で遊んでいるのでしょう?」
ラケシスの瞳は悪戯っぽい光を宿していた。良人の心の中などお見通しだ。
「そうだったね」
フィンは手を伸ばすと人差指でラケシスの唇にそっと触れ、そして優しく撫でた。
ラケシスがうっとりした瞳を向けると、彼はゆっくり顔を近づけていって──
「ただいまーっ! ご飯まだ!?」
リーフとナンナがキッチンに飛び込んだ時、そこにはフィンとラケシスがいた。
二人は不自然なくらい離れた位置に立っており、まるで飛び退った直後のような様子だった。何だか焦っているようにも見えた。
大人たちの様子に二人のこどもは怪訝な顔をしたが、
「もうすぐできるから先に手を洗ってらっしゃいな」
とラケシスが優しい声で言ったので、喜び勇んでその場を去っていった。
二人とも、ラケシスの笑顔が少しひきつっていたことには気づかなかったらしい。
<Fin.>